鉄砲は一五四三(天文12)年、鹿か児ご島しまの種たね子が島しまにポルトガル人が伝え、たちまち各地に広がりました。鉄砲が戦闘に用いられるようになってから、戦い方や城のつくりが大きく変わりました。明禅寺城…岡山市中区沢田にあった山城。ょう翌よ年ね、直家は明禅寺城を奪い返し、撃げ退たしました。直家の勢力拡大は続き、一五六六(永禄9)年には、備中国の最高実力者だった三村家親を、配下の者に命じて鉄て砲ぽで暗あ殺さしました。っうんつわんうんらかとなばいきんく奪うわれてしまいました。そして、上じ道と郡ぐ沢さ田だ村むに明み禅ぜ寺じ城じを築き、父家親の仇をうつため備中から備前へ攻めてくる三村元も親ちの軍勢との合戦に備そえました。明禅寺城はまもなく三村勢にょうょう大軍で攻めてきた三村勢を行け!!24
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