伏見城…京都市伏見区にあった秀吉最後の居城。ょう美み濃の国くに・関せヶが原はで戦いました。まい病やに倒れた秀吉は、徳とく川がわ家いえ康やす・前ま田だ利と家いえ・毛も利り輝て元もと・しえしうるっくらきのいういきりついすちまなさ上うえ杉すぎ景かげ勝かつ・宇喜多秀家を集めました。秀■■頼■■を一五九八(慶長3)年、伏ふ見み城じ──彼らは政治を担う重臣で豊臣五大老と呼ばれることがあります。しかし家臣たちの結け束そはくずれ一六〇〇(慶け長ち5)年九月、徳川家康率ひいる東軍十万の兵と、石田三み成なを中心に秀家も加わった西軍八万の兵が、これを関ヶ原の戦といいます。はじめは西軍が優ゆ勢せだったようですが、小早川秀秋が東軍へ加勢したことが鍵となり、東軍が勝利しました。家康は、三年後に江戸で徳川幕府を開くことになります。関ヶ原の戦に敗れた秀家は、二人の息む子ことともに伊い豆ず八は丈じ島じへ流され、八十四歳の生し涯がを終えるまで過ごしました。前田家や元の家臣であった花は房ぶ家けからは八丈島の秀家のもとへ毎年お米などが送り続けられました。ょうょうょうたのむ……45
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