岡山城下町遺跡の発掘調査では、二の丸跡の広い範囲でこの洪水で壊れた武家屋敷の跡が見つかっており、被害の大きさが伝わってきます。一六五四(承じ応お3)年七月豪雨によって旭川が大洪水をおこしました。家屋や施設が流され、土地も荒れて大飢饉を招き、水死者以上に餓死者が多く出ました。一連の災害による死者は三千六百八十四人にものぼりました。ょう さめのうょここんいう…いっ諫い箱はという投と書し箱ばを置きました。 江戸から帰ってきた光政は、あまりの災害に驚おき、急いで復ふ旧きに取り組むとともに、数多くの救き済さ策さくを打ち出しました。また、領民たちの意見を藩は政せに生かそうと、城下の数カ所にどろゅうゅう57
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