《津田永忠》十四歳で池田光政の身の周りの世話をする光政の信任が厚あく、重要な土木事業を任されました。儒教に基づく池田家の墓所を備前市吉永町和意谷に造営したり、閑谷学校の建設を担当したのも永忠です。光政が隠居すると、一時は要職を解かれ閑谷に住みましたが、藩の要職に復帰して綱政に仕えました。かり雑ざ用よ係がとして仕えました。■つうつ綱政の許しがでると、永忠はさっそく学舎を避難所に転用し被災者に食べ物を与えました。今は緊■■急■事■態■学問どころではないと申すのじゃな永忠はがんこものですがものの軽重はよくわきまえた男でございます■■71
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